日々の雑想ブログ -生死観・信心など-

これまでの振り返りや、日々の所感をつづりたいと思います。

本当の親鸞聖人の教え

メールで色々質問などさせて頂き、まず驚いたのは「阿弥陀仏の本願は念仏(南無阿弥陀仏)をとなえるものを救う」ということでした。

これまでは、「念仏をとなえて極楽に往けると教えているお寺は間違い」「信心で救われるというのが本当の親鸞聖人の教え」と固く信じていました。真逆のように思い、かなり抵抗感がありました。
しかし、あくまで阿弥陀仏の本願は「念仏となえる者をすくう」というお約束であり、この念仏の力に対しての疑いが無いことを信心というのだと教えて頂きました。
私は「信心」と言っていたけど、何に対する信心なのかが抜けていたのです。関係性が分かりました。

また、これまでは信心を頂いたら、「はっきり、スッキリ」霧が晴れたように何でも分かる。死も怖くなくなり、いつ死んでも極楽に往けるのだという確信が得られるようになるものと考えていました。
それについても、「本当かな?」とか「おとぎ話のように思える」という思いは煩悩であり、それらは信心を得ても無くならないということも驚きでした。無くなる疑情(疑蓋)というものと、死ぬまでなくならない煩悩の疑いと混同していたことが分かりました。

facebook上で、同じように親鸞聖人の教えを聞いておられる聞法道場にも参加させて頂くようになりました。
そして徐々にこれまで聞いてきた教えは間違いであったと分かってきました。
言葉は同じ親鸞聖人のお言葉や仏語を使うので、似ているのですが、意味合いが異なるのです。はじめはかなり混乱しました。
親鸞会で聞いていた時も、同じ阿弥陀仏の本願に救われることが目的ではありました。
しかし聴聞や諸善など自分が私が努力を積み重ね、その先にゴールがあるという図式は、本当の親鸞聖人の教えとは異なるものだったと理解に至りました。