日々の雑想ブログ -生死観・信心など-

これまでの振り返りや、日々の所感をつづりたいと思います。

会者定離(2)

ところが光雲先生は、別れに毎回傷つきながらも、相手に対して最後と思って愛そうとされているそうです。
性格の違いの一言かも知れませんが、同じ会者定離の境涯にありながら、受け止めが真逆で軽くショックを受けました。
自分は自分の心が傷つきたくないことばかり考えているなあ…と。

そんなことをぼんやり考えながら、夕方愛犬の散歩に家を出ました。うちはすぐ近くに小学校があるのですが、校門を出たところで、見知らぬ小学生の男の子が一人「こんにちは!犬を触っていいですか?」とあいさつをして近づいてきました。

 

しばらく犬の体を撫ででもらい、1分もかからないような出会いと別れでしたが、屈託のない彼の姿に何とも言えない気持ちになり、お念仏せずにおれませんでした。

避けられない別れは辛いものですが、別離の辛さばかり見るよりも、今のご縁を大切にすることを考えた方がいいですね。
そして、ともに仏法を聞き、阿弥陀仏の強いご縁によってお念仏させて頂く身となれば、この世では別離をすることがあっても、再会をさせて頂くことができるのですから。

「別れゆく みちははるかにへだつとも こころは同じ 花のうてなぞ」

お別れを嘆かれる親鸞聖人に法然上人が詠まれたお歌とお聞きします。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

 

koun18book1.blogspot.com

(自己紹介)仏教とは無縁だった私がブラジルのお坊さんになるまで。|久保光雲(お坊さんYouTuber)

久保光雲(お坊さんYouTuber)|note

会者定離(1)

今日は、いつも親鸞聖人の教えを聞かせて頂いている久保光雲先生から、別離について話題があり、感じたことを書いてみようと思いました。
大谷選手が結婚されたとのことで、ニュースが持ち切りですが、別離について…。
「明るい話題がいいのに、縁起の悪い」と気分を悪くされる方がおられたら、すみません。

会者定離 ありとはかねて聞きしかど きのう 今日とは思はざりしを」

親鸞聖人が35歳で、法然上人とお別れせねばならなかった時に詠まれたお歌と言われています。
会者定離とは仏教の言葉で、出逢ったものは、必ず別れの時がくるという意味です。
「会うは別れのはじめ」とも言われますね。
そして別れとは辛く、悲しいことです。大切な相手であるほどなおさらです。
これを仏教では「愛別離苦」と言われます。
愛するものと別離する苦しみ。
「そういう教えや考え」ということではなく事実を言われているだけです。
自分の人生を振り返っても、周囲をみても、別離の悲しみがあふれています。

私は昔から、死ぬことや人と別れることを、ことあるごとに意識していたように思います。

中島みゆきの「わかれうた」という曲があります。

「わかれはいつもついてくる 幸せのうしろをついてくる
 それが私のくせなのか いつも目覚めればひとり」
という歌詞が好きというか、その通りだなあと感じていました。

そんな気持ちから、私は人間関係や物事に対して、常に一歩引いたような、冷めた目で見ることが多かったと思います。達観したつもりでいました。
深入りをしても、どうせ別れが来るのだから。辛い思いはしたくない。という感じです。
これは今の私の人格、性格を形成する上でかなり大きな要因になっていると自分で思います。

主語は誰?②

話は変わりますが、仏法(とりわけ浄土真宗の教え)を聞くうえでも、「主語は誰?」と言われると、私ではないなと最近つくづく思います。


もちろん、お目当ては今現在苦しんでいる「私」ですので、正客は私です。
しかし、浄土真宗の教えとは、そんな私を、「阿弥陀仏はどのようにご覧になられているのか」そして、「阿弥陀仏はどのように助けたいと願いを建てられたのか」「そのために阿弥陀仏はどのようなご苦労をなされたのか」。その結果、「阿弥陀仏はどうやって助けて下されるのか」、が説かれているものと思います。全て主語は「阿弥陀仏」で私は目的語なのです。「私が」が主語として入る余地がないのですね。

NHKのプロフェクトXという番組が、4月から再開されるそうです。内容が全然違うので、譬えが適切か分かりませんが、仏法を聞かせて頂くということは、ああいう番組を観るのと感覚的に似ている気がしますが、どうでしょうか?

橋やダムなど、先人の大変なご苦労があり恩恵に預かることができている。それを聞いて、ただ感謝と称賛のみですね。そこに今更私が石ころ一つ補う必要などないと言いますか。うまく表現できないのですが。

 

親鸞会で話を聞いていた頃を思い出しますと、常に主語は私であったなと感じます。
阿弥陀仏の救いにあう」ことが目的で、そのために「私が」どうすればよいのかと。
その「私が」こそ、阿弥陀仏のご苦労をはねつけていた申し訳なかった心と今は思います。

南無阿弥陀仏

主語は誰?①

気が付けば、あっという間に2月も半ばを過ぎてしまいました。
昨年の大腸検査では、ポリープが見つかり切除してもらいましたが、幸い良性との診断でした。一安心でしたが、2月に入り、コロナに罹患し、職場にも何かと迷惑をかけてしまいました。

現在仕事に復帰はできましたが、火宅無常の世界。いつどうなるか本当に分からない境涯と改めて感じました。

 

今回のタイトルですが、「主語は誰?」とは、ある緩和ケアの雑誌記事からのものです。
緩和ケアの現場で働いている時、色々モヤモヤすることがありますが、そんな時、「それは誰が主語になっているのか」「誰のためなのか」と立ち返る必要があるという内容です。
医療の世界においては、もちろん主語は「患者さん」。その次が「ご家族」でなければなりません。医師、看護師ではありません。
「患者さんのためのケア」は当たり前の話なのですが、情けないことに見失いがちと思います。
なまじ医療の知識があったり、業務が繁忙であると、「○○した方がいいのに」「△△の方が楽なのに…」と自分主語(目線)の答えを出しがちなんですね。
しかし、私のためのケアであってはならない。
この「主語は誰?」というつぶやきは、それに対する戒めと受け止め、ことあるごとに思い返してします。

 

<参考文献>
渡邊紘章(2018)「主語は誰?」緩和ケアvol.28 6月増刊号,p38-40

犬の散歩中に感じたこと

先日の人間ドックで引っ掛かり、今月はじめに大腸検査を受けることになりました。
以前、消化器内科で勤務していた時、患者さんに説明していたことと同じ説明を受け、検査を受ける立場になるのは少し不思議な感覚でした。本当に「われや先、ひとや先」…ですね。結果が分かったら、またお伝えしたいと思っています。

 

それとは別の話になりますが、少し前から職場での人間関係に悩むことがあり、今日も仕事のあと、その方とのやりとりについて悶々とした気持ちでいました。

帰宅して、とりあえず愛犬(りく)の散歩に出かけましたが、散歩中も職場のことが頭をめぐり、「どういう態度であればよかったのか」「どう言えば良かったのだろう」などずっとあれこれ考えていました。そんな中、りくはりくで、何にもない地面をえらい真剣に臭いを嗅ぎ続けていて、そんな姿を見た時、思わず笑ってしまいました。

「何をこの子は、そんな地面なんか一生懸命嗅いでいるのだろう。かわいいなあ。この子にとっては大事なことなんだろうなあ」と。
その時、「阿弥陀仏も、あれこれ悩んでいる私のことをそんな風に愛おしくご覧になっておられるのかな…」とふと感じました。
私の周りには仏法を聞かせるご縁となって下さる、還相の方がたくさんおられるとお聞きしました。
どなたが還相の方なのか、煩悩の私には知る由もありませんが、姿を通して、阿弥陀仏のことを思わせてくださる方は、犬も職場の方も、もしかしたらそうかも知れないと思ってもいいのかな…、など感じた今日この頃でした。

南無阿弥陀仏

人間ドック

本日は勤め先の病院で年に一回の人間ドックを受診しました。
午前中に一通り検査を終え、午後の面談で医師から説明を受けましたが、今回便潜血が陽性とのことでした。
便に血が混じるのは単に痔などの出血もありますが、大腸がんの可能性もあるので、近々大腸カメラで精査をすることになります。
もっとも便潜血が陽性の人が、がんと診断されるのは、数パーセントなので、全然イコールがんではないですが、やはり「いつか自分も死ぬ」ということを意識させられますね。
と言いつつ、今は「どこで検査を受けようかな。痛いのかな?勤め先の病院は知っている人がいるので嫌だなあ…」とかそんなことばかり考えています。
がんが確定したら、どんな心境になるのかな…と、思います。

ニュースをみれば、毎日私より若い方が、突然命を奪われる痛ましい事件や事故は、途切れることがありません。
死ぬのはもちろん嫌なことだけど、ある程度命の目安がみえることで、逆に自分の残り時間をより大切に考えることができる猶予が与えられたと思うと、ある意味、恵まれた死に方なのかなと感じます。…など言いつつ、脳出血心筋梗塞で今晩逝かない保証はどこにもありませんが。
物心ついた時から、意識していた「死」がいよいよ来るのかなと思うと、何とも言えない気持ちなります。ただ死んだらどうなるか、ということについては、阿弥陀仏にお任せさせて頂くことができたのが、ありがたく思っています。

 

「人間のはなかき事は老少不定のさかひなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて念仏申すべきものなり」(白骨の章)

南無阿弥陀仏

二河白道の譬えについて

この度、ご縁があり、光雲先生、龍雲先生のサンガ(集まり)に参加させて頂きました。

琵琶湖の湖畔で、とても素敵なロケーションでした。犬を連れて来て良いということで、愛犬も連れて行きました。

3日間のうちの、私は2日目だけの部分参加で、短い時間でしたが、二河白道の譬えがテーマでした。

二河白道の譬えは、親鸞会でも聞いていましたが、その時は、「求道、聞法の心構え」とう意味合いで受け止めていました。求道(=親鸞会の活動)は辛いけど、世俗に戻っても何もないのだから、頑張って進んでいけ。そうすればいつか阿弥陀仏からの呼び声が聞こえ、細い百道が無碍の一道に広がる時がある。という感じです。
必ず直面する「死」という問題を考えた時、この世のことはすべて色あせてみえることは実感していましたので、このお話はとてもしっくりきましたし、頑張って進まなければ、と自分に言い聞かせたものでした。

 

しかし今回、三定死は先の話ではなく、今の私であり、その私に「はやくおいで。まもってあげましょう」と阿弥陀仏は呼びかけて下さっているのだと教えて頂きました。

私がとなえさせて頂いているお念仏は、その呼び声なのですね。遠い先に聞こえるものではなかったのです。
光雲先生は、「二河白道の譬えは『信の相』と教えられたもの」と言われたような気がしましたが、その表現がぴったりと思いました。
また今回、この二河白道の譬えを、ナレーション、旅人、盗賊など数人で分担して演じるということも経験しました。

そのようなことは初めてで、初対面の方も多かったので、かなり気恥ずかしい思いがありましたが、青と赤の座布団で水と火の河を再現したり、その役になり切って演じられる方もおられ、とても素晴らしい寸劇でした。
西岸にたどりついた旅人と、西岸の方が抱き合って喜ぶアドリブをされた方もおられました。笑いながら、「阿弥陀仏はお浄土にまいった方をお喜びになられない訳ないなあ…」と感じました。

そして、自分が参加し、声に出すことにより、単に読むだけとは全く実感が異なると分かりました。この二河白道は本当に単なるたとえ話や、おとぎ話ではなく、今現在、私の身の上に起きていること、と改めて感じました。
これは、実際に参加しないとなかなか分からない、貴重な経験でした。

二河白道の譬え

琵琶湖畔

愛犬りく



午後は湖岸を愛犬と散歩したり、サンガの参加者の方と色々お話をすることができ、とても充実した一日となりました。


南無阿弥陀仏