仏身より血を出すについて
続きです。東京では五逆罪のお話の中で「仏身より血を出す」について教えて頂きました。仏教では、仏様の身体から血を出させることは、大変恐ろしい罪になると教えられています。
私には知恵がないため、無常ということも、罪悪ということも分かりません。その結果、流転輪廻を繰り返し、今現在も苦しみ続けています。
現在は科学もずいぶん進歩しましたが、私個人の幸せはどれだけ進歩しているでしょうか。欲や怒りに振り回され、煩い、悩んでいる。そんな苦しみ続ける私をみられて、阿弥陀様は血の涙を流されていると教えて頂きました。
「親心子知らず」と言われますが、聞かせて頂いた時、自分で思っている以上に私のことを憐れみ、悲しんで下されているのが仏様なのだと感じました。
人と仏法の話をする時に、よく「仏さまは、そんな私たちにどう仰っておられるか?『必ず助ける』それだけですね。それが私の口から出て下さるお念仏」と分かったように言ったりしていました。
しかしそんな軽々しいものではなかったのですね。
「蜘蛛の糸」という小説では、お釈迦様は極楽から蓮の池を通して、地獄で苦しむカンダタをご覧になり、哀れに思われたそうです。しかし阿弥陀様は、そんな安楽で快適なところから、私をながめてクールに声をかけておられるのではなかったのですね。煩悩で曇った私の目には見えませんが、今ここにおられて、私以上に苦しんでおられる。血の涙を流しながら、「助けさせてくれ」と仰って下されている。
テンションが全く違っていました。分かったつもりで分かっていなかった。本当に恥ずかしく、申し訳なく感じました。
どだい仏様のお慈悲など分かりようのない私なのですが、それでも法を聞いてわが身を振り返るたび、少しずつでも知らされる気がします。またそれが喜びにつながります。
これからも聞かせて頂きたいと思いました。
東京の合宿 信心の三角形について(2)
私は以前、親鸞会というところで後生の一大事の解決を求めていました。そこでも「信心の沙汰が大切」とも言われましたが、思い(特に後ろ向きな気持ち)を自由に言える環境ではなかったと思います。
「心理的安全性」という言葉は、職場でも言われます。私は看護師をしていますが、未だに分からないことだらけです。
「聞くのが怖くて自己流でやってしまい、医療事故を起こした」という話はよく耳にします。それは患者さんはもちろん、看護師にとっても不幸な結果です。
タイミングや、言葉遣いなどはあるでしょうが、何を質問しても、意見を述べても大丈夫だからこそ、細かい気づきができると思います。それは看護師個人だけでなく、部署全体の成長につながり、患者さんにより良い看護ができる。
そういう職場づくりをしましょうと最近よく言われます。
職場は仕事の集まりですが、サンガは法の集まりです。
人が集まれば、お互い煩悩の塊なので、考えが合う、合わないもあるかと思います。
ここで大切なのは、真ん中の「法」ですね。
一人、一人が阿弥陀様に願われて、今集まっている。
その思いが根底にあれば、尊重こそあれ、否定などできないですね。
そういう思いで一人一人が実践されている素晴らしいサンガに参加できて良かったと、しみじみ感じます。
東京の合宿 信心の三角形について(1)
6月に入り、雨の日が多いように感じます。今日は少し肌寒いくらいですが、すぐにうだるような暑さが続くのでしょうね。
久しぶりにブログを更新します。
私は現在、久保光雲先生の聞法グループ(サンガ)で聴聞させて頂いています。
先月東京で、泊りで仏法を聞かせて頂く合宿に参加しました。途中公開講座もあり、とてもよい雰囲気でした。
たくさんの宝物を頂いた気持ちです。
教えて頂いたこと、感じたことなど一部ですが、皆様とも共有できれば嬉しく思います。
・信心の三角形について
後生の一大事の解決のために、この三角形を実践することが大事であると教えて頂きました。
三角形を構成するのは、①法話 ②信仰告白 ③座談 になります。
①は教えを聞くこと ②は自身の思いや理解を述べること ③はお互い聞きあうこと。
そしてその真ん中に法(名号)があるのは、それらは全て阿弥陀様のお働き(南無阿弥陀仏)によってなされている、ということ。

仏法を聞くとは、授業のように一方的に教えてもらうことではないのですね。
コップが満タンだと、新たな水が入れないように、心のコップの水(思い)を出すことが同じくらい大切と教えて頂きます。
そして、そのためには「何を言っても大丈夫」と感じられることが大切。
「こんなこと言ったら、叱られる?」という雰囲気では、なかなか思ったことを言えないですね。
少し長くなりますので、2回に分けたいと思います。
「信心」と「そのまま救う」について
ご縁があり、浄土真宗の教えを聞いておられる方に、「なかなか信心を頂けない」と悩まれる方は少なくないと思います。私自身、そうでした。
「信心を頂きたい」という思いは、言い換えれば「信心を頂かなければ救われない」という理解からと考えます。
一方、阿弥陀様は何とおっしゃっておられるか?「念仏をとなえるものを助ける」とだけです。何の条件もありません。「そのままの救い」とも言われます。ということは、今この瞬間の私が救われるということです。これと、「信心を頂かないと救われない」は何かすれ違っているように感じないでしょうか…?
信心と言っても聞くことと教えて頂きます。「聞即信」と言われます。聞くとは、阿弥陀様の呼び声を聞くこと。阿弥陀様は「そのまま救う。必ず浄土にうまれさせる」と呼び続けておられます。それが今私の口から出ているお念仏ですね。
「そのまま救う」と聞いたら、そのままなのだから私がやることはもう何もないですね。
「いや、もちろんそう聞いているけど、信心がいるのでしょう?」と言うのは、聞いていないということ。
「信心をえる」と聞いて、喜びや実感・驚き・何か分かるようになる…など何かしら新たに「得られる」ものがあるとイメージをして、そういう「信心えた自分」になって初めて救いと言えると想像しているのではないでしょうか?
それは、私がつくりあげた「私の救い」であって、「阿弥陀様の救い」ではないですね。
阿弥陀様は何とおっしゃっておられるか。それを聞かせて頂く。
「信心」と言っても、それ以外の何もないと折に触れ思わせて頂きます。
雑想です
3月に入り、少しずつですが、あたたかさを感じるようになってきましたね。
年が明けてあっという間に1/4過ぎようとしており、本当に月日の早さに驚きます。
ブログも更新したいと思いつつ、「うまくまとまらないなあ」など体裁を考えている間にずらずらと時間が過ぎて行く感覚です。
そんな懈怠な状態でも、時々みて下さる方がおられるのは、本当に嬉しく感じます。
改めてお伝えすることはないのですが、最近ご縁にふれて、ふと感じたことです。
すみません、備忘録のような感じです。
「呼び声を聞く」とは「助ける」と聞くだけでなく、「助からないものを助ける」とセットになっているについて。
片方だけはあり得ない。聞くとは「仏願の生起本末を聞いて」と教えて頂きます。生起とは、私のこと。「助からないもの」とは私が思うことではない。(もちろん罪悪観を否定するものではありませんが)阿弥陀仏がそのように見て取られ、その上で「助ける」と言われている。それを聞かせて頂くことなのだと。
当然至極で当たり前すぎかもしれませんが、最近ようやく言語化できた気がしました。
聞法グループの紹介
11月も終わりにさしかかり、今年も残すところ1ヶ月あまりとなりました。
1年と言ってもあっという間に感じます。
こんな調子で5年、10年と過ぎてゆき、気が付けば後生は目の前となるのでしょうね。
いえ、5年、10年先の話ではないですね。今この心臓が止まれば、今から後生となります。
私のいのちには何の保証もないのですから、後生は今の問題ですね。
私が仏法を聞きたいと思ったのは、後生という誰もが直面する問題について教えられていると感じたからでした。
親鸞会で話を聞いていたのも、それが理由になります。
残念ながら、親鸞会の教えでは、後生の問題という入り口はあっても、その解決という出口は見つからず、延々と求め続ける形であったと今にして思います。
その経緯については、これまでのブログで述べてきました。
そんな中、久保龍雲先生、光雲先生とご縁があり、改めて教えを聞かせて頂くことができ、お念仏にあわせて頂くことができました。
これ以上の喜びはなく、先生方、そして阿弥陀様のご恩には感謝しても仕切れるものではありません。
と言いつつ、仕事や日々の雑用など、世間事や、自分の欲を満たすことにほとんどの時間を費やしてしまっている現状なのですが…。
そんな中でも、私も聞法グループの一員に入れて頂き、ご法話のご縁にあわせて頂いています。
煩悩具足の私は、すぐに欲や怒りなど、どこへ飛んでいくか分からない凧のようなものです。蓮如上人は私はザルのようなもの。法を聞いてもすぐに流れてしまう。だからザルを水に浸けるようにと言われました。凡夫だからと忘れがちを誇る訳ではありませんが、こんな自分だからこそ、ご縁は何より大切だと感じています。
このブログをみられる方は、どんな方々か分かりませんが、後生や信心、仏法の教えにについて何らか関心や悩みがある方なのではと考えています。
今回グループを紹介させて頂きますので、どなたかでもご縁があればと思わずにおれません。振り返ると1年間で本当にいろいろな宝物を頂いたのだなあと感じます。
お一人でも一緒に聞かせて頂けると嬉しいですね。
実感・安心感について
先日、ご法話のご縁で、同行方とお話をしていた時にふと思いついたことです。
「救われたという実感がない」「安心感がない」ということについて。
私は毎日いろいろなことを考えて生きています。
それを軸に生きているとも言えるかもしれないですね。
しかし、こと阿弥陀様の救いに関して言えば、私の思いというものは、まるで空気や水のようなものだなーと感じました。
空気や水で、がんばって壁や階段を作ろうとしても、すぐに流れて散ってしまいます。
どれだけ一生懸命積み上げても、それを足場に天井に到達することはできません。
私にどれだけ実感が持てたとしても、安心感が生じたとしても、その上にご信心があるのではない。
実感や安心感も空気のようなもので、あっという間に流れていってしまう。
親鸞聖人は「心を弘誓の仏地にたてて」と仰っておられます。
今、私の口から出て下さる南無阿弥陀仏以外に救いはないのですね。
逆に言えば、私に実感がないことも、安心感がないことも、空気や水で光や雨風を遮ることができないように、阿弥陀様の救いの妨げにはならないのですね。
無碍の光明、無碍の一道という言葉が思い浮かびました。
ああ、そういえば親鸞会で言われ、がんばっていた聴聞も諸善も同じでしたね。みな空気のようなもの。それを石垣のように積み上げて到達できると考えていました。
横の線などないのですね。今、目の前に縦の線(お念仏)がある。それを頂くだけですね。
二河白道の譬えならば、白道(求道)を進んだ先に無碍の大道が広がるのではない。今が三定死であり、欲怒りの逆巻く目の前に白道(ご信心)があるのですね。
とりとめない文章ですが、思いつくまま書かせて頂きました。
もう少し分かりやすく書ければよいのですが…。