実感・安心感について
先日、ご法話のご縁で、同行方とお話をしていた時にふと思いついたことです。
「救われたという実感がない」「安心感がない」ということについて。
私は毎日いろいろなことを考えて生きています。
それを軸に生きているとも言えるかもしれないですね。
しかし、こと阿弥陀様の救いに関して言えば、私の思いというものは、まるで空気や水のようなものだなーと感じました。
空気や水で、がんばって壁や階段を作ろうとしても、すぐに流れて散ってしまいます。
どれだけ一生懸命積み上げても、それを足場に天井に到達することはできません。
私にどれだけ実感が持てたとしても、安心感が生じたとしても、その上にご信心があるのではない。
実感や安心感も空気のようなもので、あっという間に流れていってしまう。
親鸞聖人は「心を弘誓の仏地にたてて」と仰っておられます。
今、私の口から出て下さる南無阿弥陀仏以外に救いはないのですね。
逆に言えば、私に実感がないことも、安心感がないことも、空気や水で光や雨風を遮ることができないように、阿弥陀様の救いの妨げにはならないのですね。
無碍の光明、無碍の一道という言葉が思い浮かびました。
ああ、そういえば親鸞会で言われ、がんばっていた聴聞も諸善も同じでしたね。みな空気のようなもの。それを石垣のように積み上げて到達できると考えていました。
横の線などないのですね。今、目の前に縦の線(お念仏)がある。それを頂くだけですね。
二河白道の譬えならば、白道(求道)を進んだ先に無碍の大道が広がるのではない。今が三定死であり、欲怒りの逆巻く目の前に白道(ご信心)があるのですね。
とりとめない文章ですが、思いつくまま書かせて頂きました。
もう少し分かりやすく書ければよいのですが…。