日々の雑想ブログ -生死観・信心など-

これまでの振り返りや、日々の所感をつづりたいと思います。

気付き

それからしばらくのち、ふと気づきました。
これまで自分は「信心が分からない、分からない」と考えていましたが、自分の心に信心を求めていたのです。
「分からない心」が「分かった!」となりたいとずっと思っていたのですね…。
しかし自分の心をどれだけ掘り下げても、眺めても、知識や経験を得ても信心なんて出てくるものでなかったのです。
泥沼をどれだけ潜って探したところで、泥しかないのです。月など見つかる訳ないですね。
しかし月は泥沼でも影を落として下さります。
今までずっと泥沼ばかりみていて、全然みていなかった月をふと見上げさせて頂いたような、うまく言えませんが視点が180度方向転換したような感じになりました。
「私」というものは、単なる煩悩でできた器だと思います。
私の言動、考えや思いというのは、その器の形であり模様ですね。
色んな模様が浮いては消えるみたいな。立派な器の方もありますし、自分のような汚い模様でいびつな器もあります。しかしそんな器の形や模様などは、阿弥陀仏の救いにおいては、何の問題にならないのだなと思いました。
大切なことは、ただその器に南無阿弥陀仏を頂くかどうかだけ。
そして私は今、阿弥陀仏が届けて下された南無阿弥陀仏をとなえさせて頂いています。
ならば、もう私には(往生のために)することは何もなかったのですね。
ただお念仏をとなえさせて頂く以外にない。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏