日々の雑想ブログ -生死観・信心など-

これまでの振り返りや、日々の所感をつづりたいと思います。

どうすれば救われるのか②

「どうすれば救われるのか?」それは、ちょうど阿弥陀仏の救いを鍵のかかった扉のように考えていたなと、最近ふと思いました。
その扉が開けば、大安心、大満足。南無阿弥陀仏の大功徳をまるもらいして、死ねば極楽参り間違いないという絶対の幸福になれると。しかしその扉には鍵がかかっていて、どうしても開けられない。その鍵を探すような心境であったな、と。

もちろんこれは私の勝手な譬えなのですが、今思うと、そんな鍵付きの扉など最初からありませんでした。
むしろ私が扉の鍵穴で、それを阿弥陀仏がずっと開けようとしておられたのですね。

私のために南無阿弥陀仏という鍵となって下さり、お念仏として届いて下されているのですね。私が鍵を開けようなんて、とんでもない。全てが真逆でありました。

鍵は今、すでに届いている。ここにおられる。目には見えませんが、耳で聞こえますね。それをお伝えしたいです。
阿弥陀仏は「念仏をとなえる者をすくう」と誓われていますが、これは「念仏をとなえたら救われる」というより、阿弥陀仏がお念仏として私のところに来てくださり、救ってくだされるという意味であると拝します。

南無阿弥陀仏