日々の雑想ブログ -生死観・信心など-

これまでの振り返りや、日々の所感をつづりたいと思います。

本證寺のご法座①

4/21に安城にある本證寺の仏教を学ぶ会に参詣しました。三河一向一揆の拠点として、家康の大河ドラマでも登場した史跡でもあり、とても広く、立派なお寺でした。お恥ずかしいことですが、いわゆる「お寺」に参詣したのは、今回がはじめての体験でした。
午前は鈴木規夫先生のお話。
「念仏者は無碍の一道なり」の歎異抄のお言葉を通してでした。
信を頂いて、変わるところは、「外も内もすべて往生の障りとならない」という点一つであると聞かせて頂きました。
逆に言えばそれ以外は何ら変わりないということですね。
正信偈の「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」について、存覚上人の「日月の雲・霧に覆はるれども、闇はれて雲・霧の下あきらかなるがごとく、貪愛・瞋憎の雲・霧に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべし」の解釈も教えて頂きました。
煩悩は変わらないが、「往生の障りとはならない」ということを教えられたお言葉、ということなのですね。

親鸞会で聞いていた時は、この正信偈のお言葉について雲や霧があっても、その下は明るいように、煩悩は変わらないが「心は明るい」と理解していました。しかし解釈にはどこにも「心が明るくなる」とありませんし、正しくなかったと感じました。
また、阿弥陀仏の光明は無碍であるのに、私に見えないのは、光明に問題があるのではなく、私の目が見えないからとも教えて頂きました。これについても、信を頂くとは、その見えなかった目が開くことのように以前はイメージしていました。
生まれてこの方、ずっと目が見えなかった人が、パッと(一念で)開眼したら、それはハッキリするだろう。驚きもするし、見えたか見えないか寝とぼけたこと言うハズがない…と。
信を頂くとはそういうハッキリした体験とこれまで思っていました。また現在も親鸞会ではそのように教えられているかも知れません。そういう体験を求めておられる方もおられるかも知れません。
しかし、これは譬えの話ですが、煩悩によって目が見えない私は救われても目は見えないままなのですね。光明が見えるようになる訳ではない。
では心は真っ暗なままで何も分からないのか、と言えばそうでもない。「凡夫だから何も分からない、何も変わらないそのままよ」は十劫安心、無帰命安心とまた別の聞き誤りになります。
真っ暗で何も変わらないではないが、明るく変わる訳でもない。親鸞聖人が「暁(夜明けの前)」と表現されたお心が伝わってくる気がしました。


大切なことは、心の明るさの度合いは問題でないこと。心の明るさ、安心感などありようを信心に紐づけて問題にすることが問題なのだと感じました。それこそ往生の障りに自分でしてしまっている状態と思いました。
長くなってしまいました。午後のお話についての感想は、また次に書かせて頂きたいと思います。

南無阿弥陀仏