日々の雑想ブログ -生死観・信心など-

これまでの振り返りや、日々の所感をつづりたいと思います。

これまでを振り返って

数日して、龍雲先生にもメッセージで現在の心境について、お伝えしました。
龍雲先生からは、他力信心は「仏願の生起本末を疑い無く聞ける」ということ、肩の力が抜けたところでどんどん聞いていけばよいこと、他の聞法仲間に伝えることを教えて頂きました。
また、これまでの聞法の道のりを振り返って文章にしてみることもすすめて頂きました。
そういう経緯があり、今回文章にさせて頂きました。


思いついたことを加えたりしている間に、このような長文になってしまいました。
読み返しますと、阿弥陀仏は私が生まれた時から、今お念仏をとなえさせて頂くまで、本当に色々な形で導いて下されたのだと感じます。
私には分かりませんが、実際は生まれる前からの話なのだろうなと思います。
そして今現在も「南無阿弥陀仏」と寄り添い給うて下されているのだと…。
私は欲や怒りやねたみなどで頭が一杯で、思い出したようにしかお念仏をとなえませんし、仏法、阿弥陀仏のことを思うことができません。うまく表現できませんが、そんなお粗末な私だからこそ、お目当てに呼び続けて下されているのだと今は思います。

振り返りは以上になりますが、今後は日々の生活において感じたことなどあれば、書くようにしたいと思っています。

南無阿弥陀仏

現在の心境

これが現在の心境です。
正直言いますと、これが信心を頂いたことなのかどうかは私には分かりません。
「上記思えたから信心をえた」と自分の思いや理解を信心の物差しには使えないのですから。
龍雲先生に伝えて、「それは信心じゃないですよ」と否定されるのが怖いというか、嫌だなあという気持ちもありました。
しかし一方、もしこれが信心でなかったとしても、この往生の問題は、私にはどうしようもないこととも思えました。
「あなた、まだ正しい信心じゃないよ」と言われても、だからと言って、私にできることは何もないのです。

かなり語弊のある乱暴な言い方かも知れませんが、私の往生の問題は阿弥陀仏のお仕事なのですから…。

私には手出しできない問題だったのです。

言葉通りただお念仏をとなえさせて頂く以外に本当にないのです。

南無阿弥陀仏

 

この心境で仏法を聞かせて頂くと、全然聴聞が辛く無くなりました。

これまでは、聴聞を、理解を深め、信心に近づくための手段のように考えていました。

受験勉強のような感覚で、義務感のようでもあり、だから辛かったのだと思います。

聞法が苦しかった時、「聞きたくない」という心と同時に「そんなことでは」という呵責もありました。それは「聞かないと救われない」(=「聞けば救われる」)という思いからだったと思います。

「勉強さぼってどうするんだ?」というような。
しかし「南無阿弥陀仏」という合格通知はもう頂いていたのです。

「合格する」ためには本当に何のしようもなかったのです。

ずっと「どうしたら」と思っていましたが。

もう終わった話(※これも語弊があったらすみません)だったのですね。
聴聞については、「お育て」という言葉が今の自分にはしっくりくる感じがします。

 

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏

気付き

それからしばらくのち、ふと気づきました。
これまで自分は「信心が分からない、分からない」と考えていましたが、自分の心に信心を求めていたのです。
「分からない心」が「分かった!」となりたいとずっと思っていたのですね…。
しかし自分の心をどれだけ掘り下げても、眺めても、知識や経験を得ても信心なんて出てくるものでなかったのです。
泥沼をどれだけ潜って探したところで、泥しかないのです。月など見つかる訳ないですね。
しかし月は泥沼でも影を落として下さります。
今までずっと泥沼ばかりみていて、全然みていなかった月をふと見上げさせて頂いたような、うまく言えませんが視点が180度方向転換したような感じになりました。
「私」というものは、単なる煩悩でできた器だと思います。
私の言動、考えや思いというのは、その器の形であり模様ですね。
色んな模様が浮いては消えるみたいな。立派な器の方もありますし、自分のような汚い模様でいびつな器もあります。しかしそんな器の形や模様などは、阿弥陀仏の救いにおいては、何の問題にならないのだなと思いました。
大切なことは、ただその器に南無阿弥陀仏を頂くかどうかだけ。
そして私は今、阿弥陀仏が届けて下された南無阿弥陀仏をとなえさせて頂いています。
ならば、もう私には(往生のために)することは何もなかったのですね。
ただお念仏をとなえさせて頂く以外にない。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

すれ違いの図

2月のある日、メッセンジャ-で(すれ違いの図・まだ救われていない、もう救われている)について感想を求められました。
イラストについては、了承を頂き、添付させて頂きます。
一つ目は阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏をとなえるものを極楽往生させ成仏させる」と仰っているのに、「喜びがない」「ハッキリした体験がない」「疑い心があると思う」という思いを根拠に自分は「救われていない」と判断しています。
(イラスト①)


二つ目は逆に「喜びがある」「ハッキリした体験がある」「疑い心がないと思う」という思いを根拠に「救われた」と判断しているイラストです。
(イラスト②)
これまでのワークで、自分の脳みそはあれこれ勝手に色々なことを思いつくものだと分かりました。
そんな勝手気ままな心を根拠に救われている、いないと考えていること自体が阿弥陀仏のお言葉を聞いていない、すれ違っている状態だと感じました。

イラスト①

イラスト②




自分の頭の声を聴聞している

そんな中でも龍雲先生は時々メッセンジャーで声をかけて下さりました。
それで何とかご縁はつながっていたように思います。
前章で述べたような思いについても、その中でお伝えし、やりとりをさせて頂きました。
「ものを言え」と言われるが、自分の心をみると底なしに疑問があふれてきて、どうしようもないこともお伝えしました。
やりとりの中で、そういう私について「自分の頭の声を聴聞している」状態であると教えて頂きました。
そして、一度自分の思いを眺めるように、評価を入れず見ていくことをすすめて頂きました。今年(2023年)1月ごろの話です。
何か思った時に、「あー、あんなことがあの人のアタマから浮かんできたね」と、自分を客観視するということです。
それを実践するよう心掛けました。
そうすると、私の頭は本当に色々なことが浮かんでは消えていくと感じました。
また、ある場所に行くと決まってあることを思い浮かぶこともありました。
暑いと汗が出る、条件反射のようなものもあるなと思いました。

 

信心獲得したいという焦り

「念仏をとなえる」ということは口で「南無阿弥陀仏」と言えばよいのですから、私でもできます。
しかし「信心をえる」となると、どうしたらよいか分かりません。

これまでは聴聞などを積み重ねていけば、いつか信心獲得できると聞いていましたので、「そのうち、そのうち」と心に猶予がありました。
それは間違いであったと分かりますが、どうすればよいか。行き詰まりを感じました。
「信心獲得することが大切」と聞くと、言葉は悪いですが、責められているような、半ば脅しのように感じるようになりました。
気持ちが焦り、聞くことがとても苦痛に感じるようになってしまいました。
どう頑張っても空など飛べないのに、「飛べ、飛べ」と言われているような気持ちでした。
もともと怠惰な性格ですし、仕事でも疲れ、精神的な余裕がなかったということもあったと思います。
気が滅入ってしまい、聞くことから徐々に離れていました。
聞いても分からないから聞きたくない、という思いと、このままではダメだという自責の念(これこそ大きなズレだったと今は思います)でモヤモヤした状態でいました。

信心について

そこまでは分かりましたが、次に分からなくなったのが「信心」についてでした。
阿弥陀仏は念仏をとなえるものを救う」だけならとてもシンプルです。しかし同時に「信心をえて」とも教えられます。
これは蓮如上人のお言葉ですが、「ただ口に南無阿弥陀仏と称うれば助かるように皆人の思えり。それは覚束なきことなり」や「この信心を獲得せずば極楽に往生せず」など「信心が大切」というお言葉は数多くあります。
それで親鸞会では「念仏をとなえて救われるのではない。信心で救われるのだ」と教えられてきたのです。
しかし、阿弥陀仏の本願はあくまで、「念仏をとなえるものを救う」であると。
かなり分からなくなりました。
「結局念仏となえているだけではダメなのか?」「他に条件があるのではないか?」「信心をえなけば結局念仏をとなえていても救われないのでは?」「じゃあどうしたら信心をえることができるのだ?」「そもそも信心とは何なのだ?」など次々と疑問が湧きあがり、聞けば聞くほど分からなくなっていきました。