日々の雑想ブログ -生死観・信心など-

これまでの振り返りや、日々の所感をつづりたいと思います。

犬の散歩中に感じたこと

先日の人間ドックで引っ掛かり、今月はじめに大腸検査を受けることになりました。
以前、消化器内科で勤務していた時、患者さんに説明していたことと同じ説明を受け、検査を受ける立場になるのは少し不思議な感覚でした。本当に「われや先、ひとや先」…ですね。結果が分かったら、またお伝えしたいと思っています。

 

それとは別の話になりますが、少し前から職場での人間関係に悩むことがあり、今日も仕事のあと、その方とのやりとりについて悶々とした気持ちでいました。

帰宅して、とりあえず愛犬(りく)の散歩に出かけましたが、散歩中も職場のことが頭をめぐり、「どういう態度であればよかったのか」「どう言えば良かったのだろう」などずっとあれこれ考えていました。そんな中、りくはりくで、何にもない地面をえらい真剣に臭いを嗅ぎ続けていて、そんな姿を見た時、思わず笑ってしまいました。

「何をこの子は、そんな地面なんか一生懸命嗅いでいるのだろう。かわいいなあ。この子にとっては大事なことなんだろうなあ」と。
その時、「阿弥陀仏も、あれこれ悩んでいる私のことをそんな風に愛おしくご覧になっておられるのかな…」とふと感じました。
私の周りには仏法を聞かせるご縁となって下さる、還相の方がたくさんおられるとお聞きしました。
どなたが還相の方なのか、煩悩の私には知る由もありませんが、姿を通して、阿弥陀仏のことを思わせてくださる方は、犬も職場の方も、もしかしたらそうかも知れないと思ってもいいのかな…、など感じた今日この頃でした。

南無阿弥陀仏

人間ドック

本日は勤め先の病院で年に一回の人間ドックを受診しました。
午前中に一通り検査を終え、午後の面談で医師から説明を受けましたが、今回便潜血が陽性とのことでした。
便に血が混じるのは単に痔などの出血もありますが、大腸がんの可能性もあるので、近々大腸カメラで精査をすることになります。
もっとも便潜血が陽性の人が、がんと診断されるのは、数パーセントなので、全然イコールがんではないですが、やはり「いつか自分も死ぬ」ということを意識させられますね。
と言いつつ、今は「どこで検査を受けようかな。痛いのかな?勤め先の病院は知っている人がいるので嫌だなあ…」とかそんなことばかり考えています。
がんが確定したら、どんな心境になるのかな…と、思います。

ニュースをみれば、毎日私より若い方が、突然命を奪われる痛ましい事件や事故は、途切れることがありません。
死ぬのはもちろん嫌なことだけど、ある程度命の目安がみえることで、逆に自分の残り時間をより大切に考えることができる猶予が与えられたと思うと、ある意味、恵まれた死に方なのかなと感じます。…など言いつつ、脳出血心筋梗塞で今晩逝かない保証はどこにもありませんが。
物心ついた時から、意識していた「死」がいよいよ来るのかなと思うと、何とも言えない気持ちなります。ただ死んだらどうなるか、ということについては、阿弥陀仏にお任せさせて頂くことができたのが、ありがたく思っています。

 

「人間のはなかき事は老少不定のさかひなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて念仏申すべきものなり」(白骨の章)

南無阿弥陀仏

二河白道の譬えについて

この度、ご縁があり、光雲先生、龍雲先生のサンガ(集まり)に参加させて頂きました。

琵琶湖の湖畔で、とても素敵なロケーションでした。犬を連れて来て良いということで、愛犬も連れて行きました。

3日間のうちの、私は2日目だけの部分参加で、短い時間でしたが、二河白道の譬えがテーマでした。

二河白道の譬えは、親鸞会でも聞いていましたが、その時は、「求道、聞法の心構え」とう意味合いで受け止めていました。求道(=親鸞会の活動)は辛いけど、世俗に戻っても何もないのだから、頑張って進んでいけ。そうすればいつか阿弥陀仏からの呼び声が聞こえ、細い百道が無碍の一道に広がる時がある。という感じです。
必ず直面する「死」という問題を考えた時、この世のことはすべて色あせてみえることは実感していましたので、このお話はとてもしっくりきましたし、頑張って進まなければ、と自分に言い聞かせたものでした。

 

しかし今回、三定死は先の話ではなく、今の私であり、その私に「はやくおいで。まもってあげましょう」と阿弥陀仏は呼びかけて下さっているのだと教えて頂きました。

私がとなえさせて頂いているお念仏は、その呼び声なのですね。遠い先に聞こえるものではなかったのです。
光雲先生は、「二河白道の譬えは『信の相』と教えられたもの」と言われたような気がしましたが、その表現がぴったりと思いました。
また今回、この二河白道の譬えを、ナレーション、旅人、盗賊など数人で分担して演じるということも経験しました。

そのようなことは初めてで、初対面の方も多かったので、かなり気恥ずかしい思いがありましたが、青と赤の座布団で水と火の河を再現したり、その役になり切って演じられる方もおられ、とても素晴らしい寸劇でした。
西岸にたどりついた旅人と、西岸の方が抱き合って喜ぶアドリブをされた方もおられました。笑いながら、「阿弥陀仏はお浄土にまいった方をお喜びになられない訳ないなあ…」と感じました。

そして、自分が参加し、声に出すことにより、単に読むだけとは全く実感が異なると分かりました。この二河白道は本当に単なるたとえ話や、おとぎ話ではなく、今現在、私の身の上に起きていること、と改めて感じました。
これは、実際に参加しないとなかなか分からない、貴重な経験でした。

二河白道の譬え

琵琶湖畔

愛犬りく



午後は湖岸を愛犬と散歩したり、サンガの参加者の方と色々お話をすることができ、とても充実した一日となりました。


南無阿弥陀仏

ご示談②

今回のご示談で、教えて頂いた一つは、「心境が変わった」とは、「聞く耳を頂いた」ということだから、これから聞いていくことが大切、ということです。
今までは信心を頂いたら、それで終わりでいいというイメージでした。
心境が変わった=信心を頂くとは必ずしも言えませんが、どちらにしろこれで終わりではないですね。
聞かせて頂くほど、喜びも増してくるものと教えて頂きました。

たしかにそうだなと思いました。南無阿弥陀仏を頂くとは、譬えるなら大学の合格通知を頂くようなものと思います。
これまでは、どれだけ勉強(聴聞など)頑張れば合格できるかと考えていました。しかし合格通知はすでに届いていた。それに気付かせて頂けたことは、本当に有り難いことと思います。
しかし、それがどんだけすごいことか、合格頂いた大学はどれだけ素晴らしいところなのか、については、全然わかったつもりで分かっていません。
それを聞かせて頂くからこそ、合格通知のありがたさもより分かる。それは程度の問題であり、聞くほどより深く感じることができる。だから聞かないのは本当にもったいないことと感じました。

たしかに、心境が変わり、「妙好人の言葉」などのご著書も「本当にそうだな、そうだな」と読ませて頂くことが出来るようになりました。
しかし一方、やはりお酒飲んだり、美味しいモノ食べながらダラダラしたり、寝るなどの快楽の楽しみは強いですね。限りある残り時間をそんなことばかりに費やしている。それは本当にもったいない事と思いました。少し耳に痛いことでしたが、その通りと思いました。

 

南無阿弥陀仏

ご示談①

先日、ご縁があり、初めて久保龍光雲、龍雲両先生にお会いすることができました。
私が現在、お念仏をとなえさせて頂いているのは、龍雲先生の「死ぬのがこわい人へ」というブログと出会ったことがきっかけでした。
かねてより一度お礼を伝えたいと思っていました。


10時くらいに伺いますと約束をしていましたが、おり悪く高速道路が集中工事しており、到着時間がを1時間近くオーバーしてしまいました。初対面で大変迷惑をおかけしてしまいましたが、お二方ともとても気さくに接して下さり、本当にありがたく感じました。
後半、お食事も一緒にさせて頂きました。11時から16時過ぎまで5時間ほどでしたが、本当にあっという間で、最後は名残惜しく感じました。これだけの時間をさいて頂き、本当に感謝致します。
私は犬が大好きで、ラブラドールと一緒に暮らしていますが、先生のところには可愛いポメラニアンがいて、その子にも、とても癒されました。
一緒にお食事したカフェにもお利口なゴールデンレトリバーがいて、そういう意味でもとても幸せな時間となりました。
今回、光雲先生とご示談という形で、色々お話をさせて頂きました。最初、現在の気持ちをスケッチであらわすということから始まり、その後このブログに書かせて頂いた、これまでの経緯を中心にお話させて頂きました。また今後のことについて、久保光雲先生から教えて頂くことができました。
教えて頂いたこと、感じたことなど多くありますが、それらについては、近日中にまた述べさせて頂きたいと思います。
本当にご縁とは大切であると強く感じた一日となりました。

 

南無阿弥陀仏

 

note.com

 

阿弥陀仏のご誘導

時間が経つのは早いですね。あっという間に6月も後半になってしまいました。

 

飼っている犬の散歩をしていて、感じたことを書かせて頂きます。

うちの犬はきれいな景色とかあまり興味ないようです。
3月の終わりには桜をみながら散歩をしようと思い、犬を連れて某大きな公園に行きました。天気もよく、桜も満開で、とても気持ち良い散歩道でした。

しかし犬はそんな景色は気にもとめず、あちこち地面や草むらに鼻をすりつけて臭いをかぐのに一生懸命でした。気の向くままあちこちせわしなく嗅いで回るものだから、後ろから来た自転車にあやうくぶつかりそうになる時も。「おいおい」と。
そんな姿を見ると、阿弥陀様は私のことをこんな風にご覧になっておられるのかなと感じます。
仏様の望まれるお浄土などには興味なく、欲や怒りであれこれ忙しく娑婆を飛び回っている私をここまでご誘導して下されているのかな。


もちろん人間と犬の知恵の関係は相対的なもので、仏様と人間の知恵の違いにたとえることは誤りとは思いますが。
全ての人は、それぞれの人生、あれこれ迷いながら過ごされていると思いますが、その一人一人に阿弥陀仏はついて下さり、ご誘導続けておられるのだと、改めて感じました。


南無阿弥陀仏

「妙好人のことば」という本を読み始めました

妙好人のことば」(梯實圓師)という本を紹介頂いたので、Amazonで注文したら、本日届いていました。
まだ一部ですが、とても読みやすい本でした。そして内容が本当に胸に刺さるといいますか、共感と言いますか、感じるところが多くありました。
大和の清九郎さん、おそのさん、おかるさん、庄松さん…何人もの方が紹介されていましたが、みな全く同じことを言われていると感じました。時代や境遇は異なっていても、本当に同じ景色をみておられる方々だと思いました。
ご信心は阿弥陀仏から賜るものですから、一味であり、当たり前と言えば当たり前なのですが。
しかし、その心境をあらわす時、それはその人の感性や人間性、知識、才能などによってまさに千差万別となると思います。
同じ景色を見ても、10人が描けば10通りの絵になるような。
その景色の感動を、他の人に伝わるように上手に描ける人もいるでしょうし、うまく描けない人もあるようなものと思いました。
妙好人と言われる方は、学問などはほとんどない方と言われますが、そういう意味で特別、感性があって後世の私たちに感銘を与えて下される方なのかな。
妙好人の「妙」とは信心を頂く方がまれ、という意味ではあると思いますが、その中でもさらにまれな方々なのだろうと思いました。

「かぜをひくと せきがでる
 さいちが御法義のかぜをひいた
 念仏のせきが でる でる」(浅原才一さん)

 

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏