話は変わりますが、仏法(とりわけ浄土真宗の教え)を聞くうえでも、「主語は誰?」と言われると、私ではないなと最近つくづく思います。
もちろん、お目当ては今現在苦しんでいる「私」ですので、正客は私です。
しかし、浄土真宗の教えとは、そんな私を、「阿弥陀仏はどのようにご覧になられているのか」そして、「阿弥陀仏はどのように助けたいと願いを建てられたのか」「そのために阿弥陀仏はどのようなご苦労をなされたのか」。その結果、「阿弥陀仏はどうやって助けて下されるのか」、が説かれているものと思います。全て主語は「阿弥陀仏」で私は目的語なのです。「私が」が主語として入る余地がないのですね。
NHKのプロフェクトXという番組が、4月から再開されるそうです。内容が全然違うので、譬えが適切か分かりませんが、仏法を聞かせて頂くということは、ああいう番組を観るのと感覚的に似ている気がしますが、どうでしょうか?
橋やダムなど、先人の大変なご苦労があり恩恵に預かることができている。それを聞いて、ただ感謝と称賛のみですね。そこに今更私が石ころ一つ補う必要などないと言いますか。うまく表現できないのですが。
親鸞会で話を聞いていた頃を思い出しますと、常に主語は私であったなと感じます。
「阿弥陀仏の救いにあう」ことが目的で、そのために「私が」どうすればよいのかと。
その「私が」こそ、阿弥陀仏のご苦労をはねつけていた申し訳なかった心と今は思います。